コミティア読書会に行く意味

コミティアには読書会というものがある。見本誌を見るやつなのだが、なかなか有意義である。ここには普通手を触れることができないものがあふれている。触れられないのはほぼ機会の問題なのだが。

見よこの野味の海を

誰も吟味をしない、誰も求めもしない、誰も止もしない。
ただ、製作者がこれを持ってコミチアさ行くべと思った品々が並ぶのである。
観測者の好みなど知らぬ、我が渾身の一滴ここに有りと言うのが染み渡ってくる。もちろん、この世界には能力というキャップがある。技工、時間、組み立てる技術、センス、意志、健康、これらが作品ににじみ出てくるわけである。ものすごく甘いものがあるかと思えば残念な感じのものある。
ただ、それをあの短時間に閲覧可能なのはこのイベントの特徴である。

自分の目指すべき方向とそうでない方向をグラデーションをツケてみることができる。

編集者とプロの作家の織りなす雑誌を考えると

  • 掲載へ向けた挙手の段階
  • 発注時の段階
  • 編集の段階

それぞれでレビューがかかるわけである。

読書会にはそんなものは一切ない。ほぼ一次ソースが展開されている。研ぎ澄まされていると読みやすくはあるがそんなのガン無視した作品だってある。自分が歩けなかった完成度の作品に出会えるのである。

人が作品とみなす閾値がわかる

話が無くたって欲しくなる本がある。
自分の認識していた枠の外の作品が見れるのはある意味気分が楽になる。欲しい物はこうやって表現すべきなんだろうなというものがおぼろげながら見えてくる気がする。

本当はね

コミティア開催中に見本紙コーナーに張り付いて、垂涎の的を見つけて買いに走るのが一番なのかもしれない。読書会では入手はできないからね。